生産性がない人は価値がないのかという問題続き
こんにちは!
今日は3時から森さんという友人と、LINE電話をつなぎ、遠隔カフェをやりました。お互いの家でお互いに珈琲を淹れまして、珈琲を飲みながら話します。
会う方がやっぱり楽しいですが、会うのの2番目に楽しい、縄文人が見たらびっくりするような遠隔カフェという遊びです。
さて、今日はボイシーでヤバい話をしました。
というか、自分がずっと考えてきたけど、あんまり人に言えなかった話をしたのです。命についての話です。
タイトルは「命くらいは個人のものでいいんじゃないか」というものです。
生命倫理を語るときに出てくるロジックはぜんぶウソなんじゃないかなという私なりの考えを、こんなことは大っぴらにするべきでもないんですが、やってしまいました…..
下記のようなDMがきたからです。
「学生時代、休学してALS患者の介護をするアルバイトをしながら、ALSの啓発団体にも所属していました。ALSの患者さんは、延命のための気管切開手術を早い段階で選ぶかどうか迫られるのですが、実際には8割の方が手術を選ばないそうです。
もちろんそれは「生産性」云々ではなく、病気の過酷さゆえの選択だと思います。でも中には、「生きる価値がない」と感じて、自ら命を絶とうとする方もいます。それを否定したいわけではないのですが、「それだけじゃない」と伝えたい気持ちがありました。
啓発団体に属していた身としては、むしろ自分の考えを持たずにいる方が難しかった、というのも正直なところです。でも、その「違う理由」がどうしても言葉にできなかったんです。
あぴままさんがおっしゃるように、そうした選択や気持ちを尊重して、遠くから見守るしかないのかもしれません。でも一つだけ付け加えるなら、ALSのような障害は誰にでも起こりうること。自分や大切な人が、ある日突然その立場になる可能性もあるのだと思っています。
そもそも私は、「生産性がなくても生きる価値はある」と心から言い切れるだけの根拠を、自分の中で探していたのかもしれません。
でもその気持ちすら、なぜか素直に尊重できない自分もいて……。」
これを受け、やらなくてもいい話をやってしまったなと、今、石川五右衛門のような気持ちで一日を終えました。
生産性のない人は価値がないのか。最近続いているテーマの続きです。
聞いてほしいというべきですが、なんとなく言えないです。ただ、プレミアムリスナーさん、そこのところ、よろしくお願いします。